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太田城跡(大阪府茨木市)

 太田城跡 
平安時代に太田太郎頼基が築いたと云われているが、詳細は不明。
太田頼基は多田源氏の一族で、平家物語に追討令の出されている源義経と太田城付近で戦ったと書かれています。
大永7年(1527)の細川晴元と細川高国の争いの時に、細川晴元方の柳本弾正に攻められ落城。そのまま廃城となったと云われています。
現在、宅地化で遺構はなし。しかし、T字路が多いなど城跡を偲ばせることができる。
石碑と説明板の裏にある小さな石は太田頼基の墓といわれている。


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