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1月, 2018の投稿を表示しています

宝持城跡(大阪府東大阪市)

 宝持城跡  築城年代などの宝持城の沿革については不詳。 禰榮神社付近が城跡推定地。

茶臼山砦(大阪府四條畷市)

 茶臼山砦跡  詳細不明。 飯盛城の北を守る支城。 飯盛城から北に続く尾根筋と川を挟んだ尾根にある。 現在は龍尾寺の境内となっていて、遺構は見当たらない。

清滝砦跡(大阪府四條畷市)

 清滝砦跡  詳細不明。 飯盛城の北を守る支城だったのではないかと考えられている。 國中神社付近が推定地とされている。 神社は高台に位置しており、その南側を流れている清滝川はかつての天然の堀跡ではないかと思われる。

岡山城跡(大阪府四條畷市)

 岡山城跡  築城年代や築城者は不明。 前方後円墳を利用した城跡で、飯盛城の支城であったたようだ。 大坂夏の陣の時には徳川秀忠が陣を置いた。 遺構はないが、前方後円墳の形状はよくわかる。   (前方後円墳の後円部分)

三好陣屋跡(大阪府四條畷市)

 三好陣屋跡  別名、南野陣屋。 寛永年間に旗本三好備中守によって築かれた。 旗本三好氏は河内国でニ千石余を知行しており、先祖は三好長慶の叔父三好政長である。 現在、遺構は残っていない。 雁屋公民館の敷地にはかつて年貢米を納める蔵があっと云われている。 近くに楠木正行の墓がある。

三箇城跡(大阪府大東市)

 三箇城跡  飯盛城の西を守る支城であったという。 湿地帯に浮かぶ三つの島を利用して築かれたらしいが、現在は湿地帯の名残はほとんどない。 築城年代や築城者は不明。 戦国時代には三箇氏が城主だった。 永禄4年に畠山高政が飯盛城の三好長慶を攻めた時に、三箇城は畠山軍が一度落城させているが、まもなく復活している。 永禄5年、城主の三箇頼照はキリスト教となり、城内に教会を建てたという。 宣教師ルイス=フロイスはローマに「教会は水に囲まれた島にある」と報告している。 本能寺の変で三箇氏が明智光秀に与して滅び、白井氏が入城したが、天正15年の秀吉によるキリスト教禁止令が出されると、城内の教会は破壊され、城も廃城した。

足立氏館跡(大阪府東大阪市)

 足立氏館跡  16世紀に足立又助昌成が築いた居館跡。 昌成ははじめ織田信長に仕えていて、尾張国に住んでいたが、その後、豊臣秀吉に仕え、河内国善根寺村に移住して足立氏館を築いた。 昌成は豊臣期大坂城の築城の際、石奉行に任じられ、生駒山から多量の石材を切り出した。 その子の仁兵衛宗佐も徳川期大坂城の修築の時に普請奉行に任じられ、石材を多量に切り出した。 現在、付近が住宅化されているなか、遺構はとても良く残っている。 方形の館跡を囲むように水堀が完存しており、所々に石積みがみられる。 (石積み) (館跡西側にある説明板) また、館跡の近くにある春日神社には徳川期大坂城の刻印付き残石がある。おそらくは足立仁兵衛宗佐が切り出したものだと思われる。

野崎城跡(大阪府大東市)

 野崎城跡  築城年代などの詳細な歴史は不明。 四條畷合戦(1348)の時に北朝軍の縣下野守が野崎城のある場所に陣を置き、南朝軍の楠木正行と対峙したという(『太平記』より)。 河内国守護の畠山一族の内紛の時に畠山義豊が野崎城の畠山尚順を攻めたという記録があることから、野崎城の本格的な築城は15世紀に畠山氏がしたと考えられている。 また、背後の山に築かれている飯盛城の出城の役割も果たしたとも考えられているが、野崎城についての資料が少なく、確証はない。 野崎観音からハイキング道で5分強で主郭に到達する。主郭には石碑と説明板がある。 また、主郭から南東に下った処に深さ約10㍍の堀切がある。 (主郭南東部の堀切) 堀切から更にハイキング道を登っていくと飯盛城跡にたどり着く。 (城跡からの景色)

岸和田砦跡(大阪府門真市)

 岸和田砦跡  別名、別所寺砦。 城の詳細な歴史は不明。 河内国岸和田庄は足利直義の領地であったらしく、足利直義と高師直が不和になった天平4年(1350)に高師直が岸和田砦と砦一帯を攻めたと云われている。いわゆる『観応の擾乱』である。 この時、別所寺(城域内にあった寺院)の僧が奮戦したものの、兵火により別所寺の伽藍が焼失したという。 おそらく、この時に廃城になったのだと思われる。 岸和田砦は別所寺の僧兵が守る砦だったのかもしれない。 現在は遺構もなく、推定地も曖昧な状態。 弁天池公園の北側一帯の府営住宅付近にあったと云われている。

杉原城跡(大阪府豊能郡)

 杉原城跡  摂津と丹波の界に位置するため軍事的に 重要な城跡であったと思われる。 城の詳しい歴史は不明だが、天文~永禄期に築かれたと推測できるらしい。 付近を治めていた長沢一族の砦である可能性が高い。 非常にコンパクトな縄張りのわりには 遺構が良く残っている。 主な遺構は堀切、桝形虎口、竪堀、土塁。 また、主郭の両袖には「武者かくし」若しくは「武者出し」と思われる遺構も残っている。 比高もそんなに高くないので、楽に城を探索することができる。 (登山口付近の駐車場に説明板あり) (立派な切岸) (立派な桝形虎口) (堀切を土塁の上から)

徳庵城跡(大阪府東大阪市)

 徳庵城跡  東大阪市稲田付近が推定地。 築城年代などの 詳細な歴史は不明だが、建武年間に楠木正行の家来の井賀和泉守源義明が城主だったと言われてる。 城跡推定地付近は宅地化されており 遺構はもちろん碑や説明板もない。 * JR徳庵駅の北西に位置する八幡神社(大阪市鶴見区諸口)は井賀和泉守が徳庵城を居城にした時に定めた祈願所で、その時に神社に五十石を寄進したという。 八幡神社の由緒書に徳庵城について記されており、唯一の城の痕跡である。 (八幡神社の由緒書)