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利倉城跡(大阪府豊中市)

 利倉城跡  詳しいことは不明。 近世に利倉城があったという伝承が残っている。 「城の堀」などといった明らかに関係のありそうな字名も残っている。ちなみに「城の堀」には実際に水路が流れていて、堀の痕跡と思われる(一番上の写真)。 利倉地区では環濠集落跡が発掘されており 利倉城は環濠集落を利用した城郭だった可能性がある。

今西家土居屋敷跡(大阪府豊中市)

 今西家土居屋敷跡  鎌倉時代後期に建てられた今西氏居館。 別名、土居城・御土居屋敷。 春日大社領垂水西牧の南郷目代を務めていた神官が今西氏。 かつては堀や土居(土塁)が館の回りを囲んでいたことから、城郭的(中世武家屋敷)な役割もあったように思われる。 現在は外堀は埋められているが、内堀と土居が残っている。 現在の建造物は江戸時代に建てられたものである。今現在も屋敷には今西家が住んでおられる為、普段は内部公開はしていない。 (屋敷南面の堀)

麻田藩陣屋跡(大阪府豊中市)

 麻田藩陣屋跡  麻田藩青木氏の陣屋。 元和元年(1615)に築かれた。 明治維新を迎えるまで青木氏が治め続けた。 廃藩置県により陣屋は解体された。 現在は門や御殿玄関が移築されて残っているのみだ。陣屋跡付近には石碑が建っている。 (移築長屋門) 豊中市刀根山元町5-27   (移築門) 豊中市蛍池中町2丁目11   (移築御殿玄関) 豊中市春日町2-6   (移築門) 豊中市春日町2-6   (移築門) 池田市住吉1丁目 (移築武家屋敷門) 豊中市中桜塚1丁目3

原田城-北城跡(大阪府豊中市)

 原田城-北城跡  築城年代や築城者については不詳。 原田城は北城と南城がある。 この付近を治めた土豪原田氏の居城跡。 応仁の乱の時には東軍に攻められるも撃退したらしい。 天文16年(1547)に細川晴元三万兵に猛攻され、陥落、開城して廃城。この時の城主は三好長逸ではないかとも云われている。 有岡城攻めの際、織田軍の最前線の砦となった。一旦は廃城したものの大改修が行われ、復興したと思われる。 この時、原田城には古田織部や中川清秀が在城した。 やがて、江戸時代になると荒廃した。 現在は土塁が残っている。 (土塁)

原田城-南城跡(大阪府豊中市)

 原田城-南城跡  土豪原田氏の居城原田城には北城と南城に分かれていた。 築城年代や築城者については不詳。 南城に関しては完全に宅地化されて、遺構は見当たらない。

飯野藩浜屋敷跡(大阪府豊中市)

 飯野藩浜屋敷跡  飯野藩 が摂津の飛び地領を治める為に建てた浜屋敷跡。 現在は高架下に石碑と説明板があるのみで、遺構はなし。

椋橋城跡(大阪府豊中市)

 椋橋城跡  椋橋総社付近にあったと云われているが 詳しい場所や築城年代については不詳。 椋橋城は室町時代の歴史に度々登場する。 応仁の乱の時には東軍が椋橋城に籠り、それを西軍の大内政弘が破ったが、後に再び東軍が奪還し、二度西軍からの攻撃を撃退している。 荒木村重討伐の時には織田方の砦となった。 なお、椋橋城は椋橋総社と川を挟んだ尼崎の治田寺にあったとする説もあり、治田寺には説明板もある。 (治田寺)

穂積砦跡(大阪府豊中市)

 穂積砦跡  詳細不明。 豊中市稲津町3丁目付近が推定地。 勿論のこと、遺構はなし。

桜井谷陣屋跡(大阪府豊中市)

 桜井谷陣屋跡  岡部藩 が摂津の飛び地領(豊中市北部)を治める為の陣屋。別名、野畑陣屋・安倍藩陣屋。 宝永7年(1710)に建てられたが、正徳元年(1711)の野畑村の火事で類焼。翌年に規模を拡大して再建した。 明治4年(1871)の廃藩置県に伴い解体された。 現在は区画(春日町1-4)を残すのみで、遺構はなし。

勝部城跡(大阪府豊中市)

 勝部城跡  詳細不明。 戦国時代にこの地域を治めた土豪の城跡。 地形変形も激しく、遺構もなし。 かつて、渡来人の技術集団の勝部造がこの地を本拠としていたと云われている。

福井城跡(大阪府豊中市)

 福井城跡  詳細は不明だが 天正6年の織田信長の荒木村重討伐と 何らかの関わりがあったかもしれないと云われている(摂津志)。 現在は勿論のこと遺構はないが 高台となっていることが、唯一城跡を偲ばせることができる。 また、城跡推定地にある藤井寺の山号は 「東城山」である。 (藤井寺)

箕輪砦跡(大阪府豊中市)

 箕輪砦跡  詳細不明(現在調査中)。 超光寺付近が城跡と推定される。 千里川を堀として利用した可能性あり。

刀根山砦跡(大阪府豊中市)

 刀根山砦跡  天正6年(1578)に有岡城の荒木村重討伐の時に織田信長が築いた陣城。別名、刀根山城。 その際、稲葉新六・氏家左京亮・安藤平右衛門・芥川某が在陣したという(信長公記)。 現在は正安寺境内に碑(説明板)があるのみで、遺構はない。