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大阪府の城跡一覧マップ

大阪府の城跡一覧マップ 大阪府の城跡をマッピングしてます。 随時、追加更新していきます。 (*ピンの色は管理人の訪城記録用です。青/訪城済 赤/未訪城)
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奈良市の城館一覧マップ

 奈良市の城館一覧マップ  奈良市には70余の城跡が存在しています。 この地図は奈良市に存在する 《城跡・館跡・陣屋跡・奉行所跡》 がマッピングされています。 遺構が残る城跡から全く残っていない超マイナーな城跡まで載っています。 ☆現在 66城収録☆ (随時更新) *情報募集中* 以下の奈良市の城跡についての情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら Osakajyokaku☆gmail.com (☆は@に変換してください) か Twitter @tatibana_ason までよろしくお願いします! ・七条城 ・杣ノ川城 ・法用城 ・米谷城 ・横井城 ・鹿野園城 ・木島城

小林環濠跡(奈良県大和郡山市)

 小林環濠跡  詳細不明。 小字に北垣内、西垣内、東垣内、南垣内、垣添、北口、西口、堀口、堀出、南口、屋敷田、堀垣内があり。 遺構はない。  ( 集落内部 )

浅香城跡(大阪府堺市)

 浅香城跡  別名・浅香山城。 藤原魚名の末裔の浅香氏の代々居城跡。 城主の中で最も有名なのが浅香将監宗勝で南朝に属した。 詳細不明だが、文亀元年(1501)に落城した。 その後、子孫が秀吉の四国征伐の時に武功をあげ、旧領を与えられた。 現在の浅香山稲荷神社付近が城跡だと云われている。確かに高台に位置するなど、城郭的要素が地形にはあらわれている。

宝持城跡(大阪府東大阪市)

 宝持城跡  築城年代などの宝持城の沿革については不詳。 禰榮神社付近が城跡推定地。

茶臼山砦(大阪府四條畷市)

 茶臼山砦跡  詳細不明。 飯盛城の北を守る支城。 飯盛城から北に続く尾根筋と川を挟んだ尾根にある。 現在は龍尾寺の境内となっていて、遺構は見当たらない。

清滝砦跡(大阪府四條畷市)

 清滝砦跡  詳細不明。 飯盛城の北を守る支城だったのではないかと考えられている。 國中神社付近が推定地とされている。 神社は高台に位置しており、その南側を流れている清滝川はかつての天然の堀跡ではないかと思われる。

岡山城跡(大阪府四條畷市)

 岡山城跡  築城年代や築城者は不明。 前方後円墳を利用した城跡で、飯盛城の支城であったたようだ。 大坂夏の陣の時には徳川秀忠が陣を置いた。 遺構はないが、前方後円墳の形状はよくわかる。   (前方後円墳の後円部分)

三好陣屋跡(大阪府四條畷市)

 三好陣屋跡  別名、南野陣屋。 寛永年間に旗本三好備中守によって築かれた。 旗本三好氏は河内国でニ千石余を知行しており、先祖は三好長慶の叔父三好政長である。 現在、遺構は残っていない。 雁屋公民館の敷地にはかつて年貢米を納める蔵があっと云われている。 近くに楠木正行の墓がある。

三箇城跡(大阪府大東市)

 三箇城跡  飯盛城の西を守る支城であったという。 湿地帯に浮かぶ三つの島を利用して築かれたらしいが、現在は湿地帯の名残はほとんどない。 築城年代や築城者は不明。 戦国時代には三箇氏が城主だった。 永禄4年に畠山高政が飯盛城の三好長慶を攻めた時に、三箇城は畠山軍が一度落城させているが、まもなく復活している。 永禄5年、城主の三箇頼照はキリスト教となり、城内に教会を建てたという。 宣教師ルイス=フロイスはローマに「教会は水に囲まれた島にある」と報告している。 本能寺の変で三箇氏が明智光秀に与して滅び、白井氏が入城したが、天正15年の秀吉によるキリスト教禁止令が出されると、城内の教会は破壊され、城も廃城した。

足立氏館跡(大阪府東大阪市)

 足立氏館跡  16世紀に足立又助昌成が築いた居館跡。 昌成ははじめ織田信長に仕えていて、尾張国に住んでいたが、その後、豊臣秀吉に仕え、河内国善根寺村に移住して足立氏館を築いた。 昌成は豊臣期大坂城の築城の際、石奉行に任じられ、生駒山から多量の石材を切り出した。 その子の仁兵衛宗佐も徳川期大坂城の修築の時に普請奉行に任じられ、石材を多量に切り出した。 現在、付近が住宅化されているなか、遺構はとても良く残っている。 方形の館跡を囲むように水堀が完存しており、所々に石積みがみられる。 (石積み) (館跡西側にある説明板) また、館跡の近くにある春日神社には徳川期大坂城の刻印付き残石がある。おそらくは足立仁兵衛宗佐が切り出したものだと思われる。

野崎城跡(大阪府大東市)

 野崎城跡  築城年代などの詳細な歴史は不明。 四條畷合戦(1348)の時に北朝軍の縣下野守が野崎城のある場所に陣を置き、南朝軍の楠木正行と対峙したという(『太平記』より)。 河内国守護の畠山一族の内紛の時に畠山義豊が野崎城の畠山尚順を攻めたという記録があることから、野崎城の本格的な築城は15世紀に畠山氏がしたと考えられている。 また、背後の山に築かれている飯盛城の出城の役割も果たしたとも考えられているが、野崎城についての資料が少なく、確証はない。 野崎観音からハイキング道で5分強で主郭に到達する。主郭には石碑と説明板がある。 また、主郭から南東に下った処に深さ約10㍍の堀切がある。 (主郭南東部の堀切) 堀切から更にハイキング道を登っていくと飯盛城跡にたどり着く。 (城跡からの景色)

岸和田砦跡(大阪府門真市)

 岸和田砦跡  別名、別所寺砦。 城の詳細な歴史は不明。 河内国岸和田庄は足利直義の領地であったらしく、足利直義と高師直が不和になった天平4年(1350)に高師直が岸和田砦と砦一帯を攻めたと云われている。いわゆる『観応の擾乱』である。 この時、別所寺(城域内にあった寺院)の僧が奮戦したものの、兵火により別所寺の伽藍が焼失したという。 おそらく、この時に廃城になったのだと思われる。 岸和田砦は別所寺の僧兵が守る砦だったのかもしれない。 現在は遺構もなく、推定地も曖昧な状態。 弁天池公園の北側一帯の府営住宅付近にあったと云われている。

杉原城跡(大阪府豊能郡)

 杉原城跡  摂津と丹波の界に位置するため軍事的に 重要な城跡であったと思われる。 城の詳しい歴史は不明だが、天文~永禄期に築かれたと推測できるらしい。 付近を治めていた長沢一族の砦である可能性が高い。 非常にコンパクトな縄張りのわりには 遺構が良く残っている。 主な遺構は堀切、桝形虎口、竪堀、土塁。 また、主郭の両袖には「武者かくし」若しくは「武者出し」と思われる遺構も残っている。 比高もそんなに高くないので、楽に城を探索することができる。 (登山口付近の駐車場に説明板あり) (立派な切岸) (立派な桝形虎口) (堀切を土塁の上から)

徳庵城跡(大阪府東大阪市)

 徳庵城跡  東大阪市稲田付近が推定地。 築城年代などの 詳細な歴史は不明だが、建武年間に楠木正行の家来の井賀和泉守源義明が城主だったと言われてる。 城跡推定地付近は宅地化されており 遺構はもちろん碑や説明板もない。 * JR徳庵駅の北西に位置する八幡神社(大阪市鶴見区諸口)は井賀和泉守が徳庵城を居城にした時に定めた祈願所で、その時に神社に五十石を寄進したという。 八幡神社の由緒書に徳庵城について記されており、唯一の城の痕跡である。 (八幡神社の由緒書)

田能城跡(大阪府高槻市)

 田能城跡  詳細は不明。 亀山城(京都府亀岡市)の支城といわれている。 一説には亀山城城主明智光秀が 亀山~畿内の狼煙をあげる砦としていたとか。 城跡は桂香寺の裏山に位置する。 桂香寺の説明板に田能城跡について記載あり。 登山道はなく、桂香寺裏から直登するしかないが、道のりは比較的歩きやすい。 山頂には曲輪、横堀、切岸が残っている。 主郭西側に浅い横堀、主郭北側には石垣の名残のような石(デカイ)が散乱している。 主郭は意外と広かった。 主郭北側の高切岸が一番の見処だ。高さは10㍍はあるように感じた。 (主郭北側の高切岸)  (主郭西側の浅い横堀)

太田城跡(大阪府茨木市)

 太田城跡  平安時代に太田太郎頼基が築いたと云われているが、詳細は不明。 太田頼基は多田源氏の一族で、平家物語に追討令の出されている源義経と太田城付近で戦ったと書かれています。 大永7年(1527)の細川晴元と細川高国の争いの時に、細川晴元方の柳本弾正に攻められ落城。そのまま廃城となったと云われています。 現在、宅地化で遺構はなし。しかし、T字路が多いなど城跡を偲ばせることができる。 石碑と説明板の裏にある小さな石は太田頼基の墓といわれている。

平尾陣屋跡(大阪府箕面市)

 平尾陣屋跡  青木氏の陣屋跡。別名、青木氏陣屋。 麻田藩から分家した青木氏(5千石)が牧の荘(平尾・西小路・牧落・桜)を治める為に建てた。 現在は「屋敷山稲荷」という神社になっていて、遺構はない。

神境環濠跡(大阪府吹田市)

 神境環濠跡  詳しい成立年代は不明だが 寛正2年(1461)頃にはすでに存在したという。 南東部を安威川、その他の三方を土居(=土塁)と堀で囲んでいたという。 神境環濠には吹田街道と能勢街道の合流地点や吹田の渡し跡があり、交通の要所であったことがうかがえる。 現在は遺構はない、江戸時代の建造物や道標などを見ることができる。 (安威川) (吹田の渡跡) (能勢街道と吹田街道の合流地点の道標)

竹中氏陣屋跡(大阪府吹田市)

 竹中氏陣屋跡  摂州吹田で千六百余石を領した上級旗本竹中氏の陣屋跡。 初代竹中重賢は竹中半兵衛の従兄弟と云われている。 竹中氏は明治維新までこの地を治めた。 廃藩置県により陣屋は解体、そ跡地は吹田役場となり、現在はマンションとなっている。 遺構はなし。

吹田城-西ノ庄城跡(大阪府吹田市)

 吹田城-西ノ庄城跡  吹田氏の居城。 築城年代など詳しいことは不明。 字名に「土井」(=土塁)が残ることや ほぼ方形の区画の北東部が欠け 鬼門落としとなっていることから 城跡があったと推測される。

吹田城-石浦城跡(大阪府吹田市)

 吹田城-石浦城跡  吹田氏の居城。 築城年代や城跡の詳細な場所は不明。 吹田城が初めて登場するのが建武3年(1336)の「吉川家文書」で 安芸国の周防親家が水田城(吹田城)を攻め落としている。 永禄年間(1558~1570)には吹田重通が本拠としている。しかし、その後に吹田重通は摂津国守護代薬師寺元長に城を追われ 薬師寺元長が吹田城城主になった。 しかし、その後、再び吹田氏は吹田城の城主となったと思われる。 荒木村重が織田信長に謀反を興した時には吹田氏は荒木方に参戦し、その後に吹田城は織田方に攻められて廃城になったと思われる。 アサヒビール工場から片山公園辺りが城跡と推定でき、かつては丘城であったと思われる。 片山公園には模擬石垣と模擬門がある。

山田城跡(大阪府吹田市)

 山田城跡  元弘年間(1331~34)に赤松則祐が築いた。 戦国時代には香西玄蕃が城主となった。 山田城には13もの支城という。 東西約270m×南北145mの規模の丘城だったと云われている(東摂城趾図誌)。 現在はコーヒーチェーン店と駐車場になっていて、遺構はないが、高台にあることがわかる。

佐井寺城跡(大阪府吹田市)

 佐井寺城跡  詳細は不明。 吹田山田城13支城のうちのひとつと云われている。

利倉城跡(大阪府豊中市)

 利倉城跡  詳しいことは不明。 近世に利倉城があったという伝承が残っている。 「城の堀」などといった明らかに関係のありそうな字名も残っている。ちなみに「城の堀」には実際に水路が流れていて、堀の痕跡と思われる(一番上の写真)。 利倉地区では環濠集落跡が発掘されており 利倉城は環濠集落を利用した城郭だった可能性がある。

今西家土居屋敷跡(大阪府豊中市)

 今西家土居屋敷跡  鎌倉時代後期に建てられた今西氏居館。 別名、土居城・御土居屋敷。 春日大社領垂水西牧の南郷目代を務めていた神官が今西氏。 かつては堀や土居(土塁)が館の回りを囲んでいたことから、城郭的(中世武家屋敷)な役割もあったように思われる。 現在は外堀は埋められているが、内堀と土居が残っている。 現在の建造物は江戸時代に建てられたものである。今現在も屋敷には今西家が住んでおられる為、普段は内部公開はしていない。 (屋敷南面の堀)

麻田藩陣屋跡(大阪府豊中市)

 麻田藩陣屋跡  麻田藩青木氏の陣屋。 元和元年(1615)に築かれた。 明治維新を迎えるまで青木氏が治め続けた。 廃藩置県により陣屋は解体された。 現在は門や御殿玄関が移築されて残っているのみだ。陣屋跡付近には石碑が建っている。 (移築長屋門) 豊中市刀根山元町5-27   (移築門) 豊中市蛍池中町2丁目11   (移築御殿玄関) 豊中市春日町2-6   (移築門) 豊中市春日町2-6   (移築門) 池田市住吉1丁目 (移築武家屋敷門) 豊中市中桜塚1丁目3