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椋橋城跡(大阪府豊中市)

 椋橋城跡 
椋橋総社付近にあったと云われているが
詳しい場所や築城年代については不詳。
椋橋城は室町時代の歴史に度々登場する。
応仁の乱の時には東軍が椋橋城に籠り、それを西軍の大内政弘が破ったが、後に再び東軍が奪還し、二度西軍からの攻撃を撃退している。
荒木村重討伐の時には織田方の砦となった。
なお、椋橋城は椋橋総社と川を挟んだ尼崎の治田寺にあったとする説もあり、治田寺には説明板もある。
(治田寺)


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