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12月, 2017の投稿を表示しています

田能城跡(大阪府高槻市)

 田能城跡  詳細は不明。 亀山城(京都府亀岡市)の支城といわれている。 一説には亀山城城主明智光秀が 亀山~畿内の狼煙をあげる砦としていたとか。 城跡は桂香寺の裏山に位置する。 桂香寺の説明板に田能城跡について記載あり。 登山道はなく、桂香寺裏から直登するしかないが、道のりは比較的歩きやすい。 山頂には曲輪、横堀、切岸が残っている。 主郭西側に浅い横堀、主郭北側には石垣の名残のような石(デカイ)が散乱している。 主郭は意外と広かった。 主郭北側の高切岸が一番の見処だ。高さは10㍍はあるように感じた。 (主郭北側の高切岸)  (主郭西側の浅い横堀)

太田城跡(大阪府茨木市)

 太田城跡  平安時代に太田太郎頼基が築いたと云われているが、詳細は不明。 太田頼基は多田源氏の一族で、平家物語に追討令の出されている源義経と太田城付近で戦ったと書かれています。 大永7年(1527)の細川晴元と細川高国の争いの時に、細川晴元方の柳本弾正に攻められ落城。そのまま廃城となったと云われています。 現在、宅地化で遺構はなし。しかし、T字路が多いなど城跡を偲ばせることができる。 石碑と説明板の裏にある小さな石は太田頼基の墓といわれている。

平尾陣屋跡(大阪府箕面市)

 平尾陣屋跡  青木氏の陣屋跡。別名、青木氏陣屋。 麻田藩から分家した青木氏(5千石)が牧の荘(平尾・西小路・牧落・桜)を治める為に建てた。 現在は「屋敷山稲荷」という神社になっていて、遺構はない。

神境環濠跡(大阪府吹田市)

 神境環濠跡  詳しい成立年代は不明だが 寛正2年(1461)頃にはすでに存在したという。 南東部を安威川、その他の三方を土居(=土塁)と堀で囲んでいたという。 神境環濠には吹田街道と能勢街道の合流地点や吹田の渡し跡があり、交通の要所であったことがうかがえる。 現在は遺構はない、江戸時代の建造物や道標などを見ることができる。 (安威川) (吹田の渡跡) (能勢街道と吹田街道の合流地点の道標)

竹中氏陣屋跡(大阪府吹田市)

 竹中氏陣屋跡  摂州吹田で千六百余石を領した上級旗本竹中氏の陣屋跡。 初代竹中重賢は竹中半兵衛の従兄弟と云われている。 竹中氏は明治維新までこの地を治めた。 廃藩置県により陣屋は解体、そ跡地は吹田役場となり、現在はマンションとなっている。 遺構はなし。

吹田城-西ノ庄城跡(大阪府吹田市)

 吹田城-西ノ庄城跡  吹田氏の居城。 築城年代など詳しいことは不明。 字名に「土井」(=土塁)が残ることや ほぼ方形の区画の北東部が欠け 鬼門落としとなっていることから 城跡があったと推測される。

吹田城-石浦城跡(大阪府吹田市)

 吹田城-石浦城跡  吹田氏の居城。 築城年代や城跡の詳細な場所は不明。 吹田城が初めて登場するのが建武3年(1336)の「吉川家文書」で 安芸国の周防親家が水田城(吹田城)を攻め落としている。 永禄年間(1558~1570)には吹田重通が本拠としている。しかし、その後に吹田重通は摂津国守護代薬師寺元長に城を追われ 薬師寺元長が吹田城城主になった。 しかし、その後、再び吹田氏は吹田城の城主となったと思われる。 荒木村重が織田信長に謀反を興した時には吹田氏は荒木方に参戦し、その後に吹田城は織田方に攻められて廃城になったと思われる。 アサヒビール工場から片山公園辺りが城跡と推定でき、かつては丘城であったと思われる。 片山公園には模擬石垣と模擬門がある。

山田城跡(大阪府吹田市)

 山田城跡  元弘年間(1331~34)に赤松則祐が築いた。 戦国時代には香西玄蕃が城主となった。 山田城には13もの支城という。 東西約270m×南北145mの規模の丘城だったと云われている(東摂城趾図誌)。 現在はコーヒーチェーン店と駐車場になっていて、遺構はないが、高台にあることがわかる。

佐井寺城跡(大阪府吹田市)

 佐井寺城跡  詳細は不明。 吹田山田城13支城のうちのひとつと云われている。

利倉城跡(大阪府豊中市)

 利倉城跡  詳しいことは不明。 近世に利倉城があったという伝承が残っている。 「城の堀」などといった明らかに関係のありそうな字名も残っている。ちなみに「城の堀」には実際に水路が流れていて、堀の痕跡と思われる(一番上の写真)。 利倉地区では環濠集落跡が発掘されており 利倉城は環濠集落を利用した城郭だった可能性がある。

今西家土居屋敷跡(大阪府豊中市)

 今西家土居屋敷跡  鎌倉時代後期に建てられた今西氏居館。 別名、土居城・御土居屋敷。 春日大社領垂水西牧の南郷目代を務めていた神官が今西氏。 かつては堀や土居(土塁)が館の回りを囲んでいたことから、城郭的(中世武家屋敷)な役割もあったように思われる。 現在は外堀は埋められているが、内堀と土居が残っている。 現在の建造物は江戸時代に建てられたものである。今現在も屋敷には今西家が住んでおられる為、普段は内部公開はしていない。 (屋敷南面の堀)

麻田藩陣屋跡(大阪府豊中市)

 麻田藩陣屋跡  麻田藩青木氏の陣屋。 元和元年(1615)に築かれた。 明治維新を迎えるまで青木氏が治め続けた。 廃藩置県により陣屋は解体された。 現在は門や御殿玄関が移築されて残っているのみだ。陣屋跡付近には石碑が建っている。 (移築長屋門) 豊中市刀根山元町5-27   (移築門) 豊中市蛍池中町2丁目11   (移築御殿玄関) 豊中市春日町2-6   (移築門) 豊中市春日町2-6   (移築門) 池田市住吉1丁目 (移築武家屋敷門) 豊中市中桜塚1丁目3

原田城-北城跡(大阪府豊中市)

 原田城-北城跡  築城年代や築城者については不詳。 原田城は北城と南城がある。 この付近を治めた土豪原田氏の居城跡。 応仁の乱の時には東軍に攻められるも撃退したらしい。 天文16年(1547)に細川晴元三万兵に猛攻され、陥落、開城して廃城。この時の城主は三好長逸ではないかとも云われている。 有岡城攻めの際、織田軍の最前線の砦となった。一旦は廃城したものの大改修が行われ、復興したと思われる。 この時、原田城には古田織部や中川清秀が在城した。 やがて、江戸時代になると荒廃した。 現在は土塁が残っている。 (土塁)

原田城-南城跡(大阪府豊中市)

 原田城-南城跡  土豪原田氏の居城原田城には北城と南城に分かれていた。 築城年代や築城者については不詳。 南城に関しては完全に宅地化されて、遺構は見当たらない。

飯野藩浜屋敷跡(大阪府豊中市)

 飯野藩浜屋敷跡  飯野藩 が摂津の飛び地領を治める為に建てた浜屋敷跡。 現在は高架下に石碑と説明板があるのみで、遺構はなし。

椋橋城跡(大阪府豊中市)

 椋橋城跡  椋橋総社付近にあったと云われているが 詳しい場所や築城年代については不詳。 椋橋城は室町時代の歴史に度々登場する。 応仁の乱の時には東軍が椋橋城に籠り、それを西軍の大内政弘が破ったが、後に再び東軍が奪還し、二度西軍からの攻撃を撃退している。 荒木村重討伐の時には織田方の砦となった。 なお、椋橋城は椋橋総社と川を挟んだ尼崎の治田寺にあったとする説もあり、治田寺には説明板もある。 (治田寺)

穂積砦跡(大阪府豊中市)

 穂積砦跡  詳細不明。 豊中市稲津町3丁目付近が推定地。 勿論のこと、遺構はなし。

桜井谷陣屋跡(大阪府豊中市)

 桜井谷陣屋跡  岡部藩 が摂津の飛び地領(豊中市北部)を治める為の陣屋。別名、野畑陣屋・安倍藩陣屋。 宝永7年(1710)に建てられたが、正徳元年(1711)の野畑村の火事で類焼。翌年に規模を拡大して再建した。 明治4年(1871)の廃藩置県に伴い解体された。 現在は区画(春日町1-4)を残すのみで、遺構はなし。

勝部城跡(大阪府豊中市)

 勝部城跡  詳細不明。 戦国時代にこの地域を治めた土豪の城跡。 地形変形も激しく、遺構もなし。 かつて、渡来人の技術集団の勝部造がこの地を本拠としていたと云われている。

福井城跡(大阪府豊中市)

 福井城跡  詳細は不明だが 天正6年の織田信長の荒木村重討伐と 何らかの関わりがあったかもしれないと云われている(摂津志)。 現在は勿論のこと遺構はないが 高台となっていることが、唯一城跡を偲ばせることができる。 また、城跡推定地にある藤井寺の山号は 「東城山」である。 (藤井寺)

箕輪砦跡(大阪府豊中市)

 箕輪砦跡  詳細不明(現在調査中)。 超光寺付近が城跡と推定される。 千里川を堀として利用した可能性あり。

刀根山砦跡(大阪府豊中市)

 刀根山砦跡  天正6年(1578)に有岡城の荒木村重討伐の時に織田信長が築いた陣城。別名、刀根山城。 その際、稲葉新六・氏家左京亮・安藤平右衛門・芥川某が在陣したという(信長公記)。 現在は正安寺境内に碑(説明板)があるのみで、遺構はない。